新聞やニュース、ウェブサイトなどで当たり前のように使われているけれど、じつは正確な意味を知らない言葉。そんな「旬ワード」をご紹介するコラムです。今回は新しい市場の開拓に挑むマーケッターたちに使われる機会が増えてきた、「CHASM(キャズム)」について解説します。
【問い】スポーツカーをシニア層に売る方法を考えなさい
【ヒント】新しさや高性能では売れません
新しい商品やサービスが普及する過程にはいくつかの段階と壁がある
CHASM(キャズム)は英語で、深い裂け目や割れ目、溝などを意味する言葉です。隙間や隔たりの意味で日本でもすでに知られているGAP(ギャップ)にも近い単語ですが、マーケティング業界においては、1991年に米国の経営コンサルタント、ジェフリー・ムーア氏が「キャズム理論」として唱えたことで注目されました。
過去に類例のない新しい商品やサービスが世に出て成功する過程で、売り上げが伸び悩み、時にはぱったりと売れなくなってしまう時期をキャズム、すなわち溝とみなし、その原因と解決策を考察したのです。
キャズム理論には、適用の前提となる理論があります。1962年にスタンフォード大学のエベレット・M・ロジャーズ教授が提唱した「イノベーター理論」がそれです。イノベーター理論では、新しい商品やサービスには、まず市場全体の約2.5%を占める「イノベーター(革新者)」と呼ぶ客層が飛びつき、同じく約13.5%を占める「アーリーアダプター(初期採用者)」層が続きます。
イノベーターは、新しいモノやコトに理屈抜きで飛びつく人々で、時にはその商品やサービスが自分に必要かどうかさえ考えません。新型高級車が出るたびに実車を見もせずに注文する富裕層などがそれに当たります。一方、アーリーアダプターは新しいモノを手に入れていち早く使いこなすことで流行の発信源となり、自身のセンスやアンテナ感度の高さをアピールする人々。インフルエンサーやオピニオンリーダーと呼ばれるのもこの層です。
イノベーター理論では、新しい商品が成功するためには、アーリーアダプターの眼鏡に叶うことが最も重要とされていました。
アーリーアダプターが商品の魅力を積極的に発信してくれれば、それに反応して、流行には乗り遅れたくはないが、失敗もしたくないという「アーリーマジョリティ(前期追随者)」層(市場全体の約34%)や、流行は気にしないが、周囲の人が使っているなら購入を考える「レイトマジョリティ(後期追随者)」層(同約34%)へと浸透は続き、やがて新しさには全く関心のない「ラガード(遅滞者)」層(同約16%)までいきわたると、世の中に完全に定着するというわけです。
たとえば世界初の量産ハイブリッド車として知られるトヨタプリウスは、97年に登場した初代はまだ完成度が低かったこともあり、さほど売れませんでした。しかし、完成度を高めて03年に出た2代目は、アーリーアダプター(インフルエンサー)となるハリウッドの有名映画俳優が05年のアカデミー賞授賞式に乗りつけたことで、「環境にやさしい最先端のクルマ」として広く認知されて、その後の成功につながりました。
ところが、キャズム理論では、イノベーター層とアーリーアダプター層を初期市場、アーリーマジョリティ以降をメインストリーム市場と呼び、その間に横たわる深い溝、すなわちキャズムをいかに克服するかが重要と説いています。つまりインフルエンサーに支持されさえすれば成功するわけではないのです。
成熟した消費者は“自分ごと”と感じられる商品しか買わない
現在、キャズムのただ中にある商品の代表例は、電気自動車(EV)でしょう。地球温暖化防止のためのカーボンニュートラル政策の後押しで、破竹の勢いで普及が進むかに思われたEVは、ここへきて世界的に失速が言われています。
自動車メーカーの開発やマーケティングの担当者に取材すると、これまでテスラに代表されるEVの販売が好調だったアメリカ市場では、すでにガソリン車を持つ富裕層のセカンドカー、サードカーが主なニーズだったといいます。つまりイノベーター層からアーリーアダプター層までの初期市場です。
一方で、EVは現状では気温などにも左右される航続距離の短さや充電ステーションの数、充電に時間がかかることなどのネガティブポイントを克服できていません。しかも、発電に火力が使われていたりすると、環境性能も必ずしも優れていないことも明らかになってきました。
そうなると、流行には乗り遅れたくないものの、失敗も恐れるアーリーマジョリティ以下の人々は、「まだちょっと怖いかな」と尻込みして、キャズムを生むのです。
その溝を埋めるひとつのヒントになりそうなのが、日産の軽EV、サクラの成功です。日産は2010年に世界初の量産小型EVとなる初代リーフを発売以来、世界の市場でEVを販売してきましたが、日本国内では必ずしも成功してはいませんでした。ところが、三菱自動車と共同開発して2022年に発売した軽EVのサクラは、価格を抑えるためにあえて電池の容量を減らしたため、航続距離は180㎞と控えめにもかかわらず、2023年度には1年間で3万4000台あまりを売ったのです。
身近な生活の足として定着している日本独自の軽自動車は、流行ではなく、純粋に実用品として選ばれる商品です。そこで、EVの新しさや高性能を武器にするのではなく、ふだん使いには必要十分な航続距離と優れた実用性、経済性といった適切な商品企画を盛り込んだことで、イノベーターやアーリーアダプターを飛ばして、アーリーマジョリティ以下のユーザーにいきなり支持されたのだと思われます。
キャズムにはそうした階層的な溝だけではなく、世代的な溝もあります。たとえば冒頭の問いにあげたように、いくら流行しても、普通はシニア層はスポーツカーを買わないでしょう。ところが、最近は30~40年も前のスポーツカーを、「若いころに乗りたかったが手が届かなかった」と今手に入れる熟年層が増えています。それらのクルマの現役時代を知らない若者の一部にも、「今のクルマにはない渋さがある」と人気です。
キャズムを克服するカギは、いかに商品を“自分ごと”として感じてもらえるかにかかっていることを、それらは示しているのではないでしょうか。
この記事の執筆者
横田 晃(よこた あきら)
ライター
アニメーション雑誌を皮切りに、自動車雑誌や男性誌の編集者として多くの新雑誌やヒット企画の立ち上げに参画。94 年に独立後も、芸能インタビューから政治経済まで、幅広いジャンルの企画・制作・執筆に携わる。