更新日:2025/06/06
新聞やニュース、ウェブサイトなどで当たり前のように使われているけれど、じつは正確な意味を知らない言葉。そんな「旬ワード」をご紹介するコラムです。今回は現代社会を痛快に批評した論考でもある「ブルシット・ジョブ」について解説します。
今からおよそ100年前、英国の著名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズ氏は「20世紀末までに、イギリスやアメリカのような国では、テクノロジーの進化による生産性の向上によって週15時間労働が達成される」と予想しました。成熟した経済システムや科学技術の進展(ITやコンピュータのこれほどの普及までは当時は予想できなかったでしょうが)によってあらゆる仕事が合理化・効率化された社会では、人々はわずかな時間だけ働けば、あとは自由な時間が約束されているはずだという予想は、残念ながら外れています。
それはなぜか、という考察を人類学の視点から試みたのが、アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバー氏による「ブルシット・ジョブ」という新しいキーワードです。彼は2013年にエッセイの形で「今の社会には、じつは世の中の役にはまったく立っていない上に、働き手自身をも蝕んでいる仕事、すなわちブルシット・ジョブがあふれているのではないか」と問題を提起しました。
すると、「自分がしている仕事はまさにそうだ」といった反響が世界中から寄せられ、それを受けた英国の世論調査会社が調べると、英国では37%、オランダでは40%もの人が、自分の仕事は世の中の役に立っていないと感じているという結果がもたらされたのです。グレーバー氏はそうしたフィールドワークの成果を盛り込んだ「ブルシット・ジョブ理論」を2018年に書籍にまとめ、日本でも2020年に翻訳出版されて注目されました。
グレーバー氏によるブルシット・ジョブの定義は
「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている」ということです。
ブルシット(Bull Shit)とは直訳すれば雄牛の糞のことですが、英語のスラングとしては「ふざけんな!」とか「嘘つけ!」といった意味合いを持ちます。さらに語源を遡ると、bullは雄牛ではなく、フランス語で詐欺や欺瞞を意味するboloに由来し、転じて“テキトー”とか“でたらめ”という意味でも使われると翻訳者は説明しています。
そうしたニュアンスを伝える言葉として、邦題ではブルシット・ジョブが“クソどうでもいい仕事”と訳されています。
グレーバー氏はブルシット・ジョブを5つの類型に分類しています。
原著でそれぞれに添えられた具体的な職種には異論もあるでしょう。しかし、分類の元になった実際の働き手の声には、「だよね」と思わせるリアリティがあります。
たとえば1の取り巻きは、誰かを偉そうに見せるためだけの仕事。実際には手が空いているボスに代わって取引先に電話をかけて、ボスの大物ぶりを演出する秘書の嘆きが出てきます。2では法的手段をちらつかせることで相手を黙らせるために雇われた顧問弁護士や、消費者に自分は世の中に乗り遅れていると錯覚させることで商品を買わせるテレビCMを作る虚しさを訴える、映像制作者の声が紹介されます。
上司やトップの失敗を露見させないための仕事で多忙な3や、上司が決裁したら誰も読まずにしまい込まれる調査資料を作らされる部下の嘆息が聞こえる4、誰かにそうした無意味な仕事を割り当てるためだけに存在する5の業務も、組織で働く人なら誰もが「あるある」と感じるのではないでしょうか。
間違えてはならないのは、医療・介護従事者や警察官、消防士、運転手やごみ収集係といった、世の中に必要な、いわゆるエッセンシャルワークはけっしてブルシット・ジョブには分類されないことです。
それらの仕事は往々にして3Kと称される危険できつい汚れ仕事の割に待遇が悪い一方で、ブルシット・ジョブは労働の内容と比べると高給で、客観的には恵まれた仕事も多く含まれています。でも、そこで働く人の多くが、どこかうしろめたさを感じているのがブルシット・ジョブだというのです。
グレーバー氏は、それを近代の為政者や社会が「働くことは美徳である」と人々に信じ込ませ、待遇に文句を言わずに身を粉にして働くことが尊いという空気を作り上げた結果であると指摘します。そして自由競争を標榜してすべてを比較対照するために、あらゆるものを数量化しようとする今日の資本主義経済体制に対して、社会は本来ケアや感情、愛情、連帯といった数量化できないものでできていて、それらを置き去りにすることでブルシット・ジョブが増殖していると叫ぶのです。
人類学者の立場で経済学者に論戦を挑み、返す刀で現代の政治や社会のシステムにも噛みつくグレーバー氏の姿勢には、必ずしも共感できない人もいるかもしれません。でも、残念ながら2020年に亡くなった彼がブルシット・ジョブ理論を通して言いたかったのは、結局のところこんなことだと思います。
せっかくIT化などで仕事の生産性を高めたのだから、空いた時間を忙しいふりに使うのではなく、心置きなく余暇を楽しみ、のんびりと人間らしく過ごすために使おうよ。
あなたの職場は仕事を終えたら誰にも気兼ねせず、「お先に~」と遊びに行けますか?
アニメーション雑誌を皮切りに、自動車雑誌や男性誌の編集者として多くの新雑誌やヒット企画の立ち上げに参画。94 年に独立後も、芸能インタビューから政治経済まで、幅広いジャンルの企画・制作・執筆に携わる。