なぜ今、「人的資本経営」が求められているのか?

〜「人をコストと見る経営」から「つながりを育む経営」へ

更新日:2026/06/16

「人が大事だ」と言わない経営者は、ほとんどいないでしょう。しかし、採用ができない。教える余裕がない。ようやく仕事を覚えたと思ったら辞めてしまう。管理職はプレイヤーとしての仕事に追われ、人を育てることまで手が回らない。そんな日常のなかで、いつの間にか、”人”を見るまなざしが、目の前の業務を回すためのものへと狭くなってしまうことがあります。

今、「人的資本経営」という言葉が広がっている背景には、そうした”経営の前提””無意識のまなざし”そのものを見直さなければならない時代に入っている、という事情もあると私たちは考えます。

人を「コスト」ではなく「価値を生み出す資本」と捉える

人的資本経営とは、一般には「人をコストではなく、価値を生み出す資本として捉える経営」と説明されます。

これまでの経営では、人件費は”できるだけ抑えるべき”ということでコストとして扱われる傾向がありました。もちろん、経営を維持するうえでコスト管理の視点は重要です。しかし、人を「消費される資源」と見てしまうと、その人が本来持っている力や可能性、現場から立ち上がる工夫や創意、さらには組織の未来をつくる力まで見えにくくなってしまいます。

この「人的資本経営」という考え方が広く注目されるようになった大きな流れの一つに、伊藤邦雄氏らによる議論があります。いわゆる「伊藤レポート」です。その流れを受けながら、企業価値を高める上で”人材への投資”や”人材戦略”をどう位置づけるかが改めて問われるようになりました。その延長線上で、国もまた、人材を企業価値向上の源泉として捉え直す方向へ舵を切っています。

ただし、中小企業にとって本当に大事なのは、こうした言葉や制度を表面的になぞることではありません。大企業のように、人的資本に関する数値を整理して開示し、投資家に説明することが主なテーマになるわけではないからです。

中小企業にとっての人的資本経営は、もっと切実で、もっと日常に近いところにあります。

採用・定着の悩みは、「つながり」の問題。能力開発だけでは、価値は生まれない

たとえば、「なかなか人が採用できない」という悩み。これは単に求人媒体や採用手法の問題だけではありません。

もちろん、採用市場の厳しさや人口構造の変化も大きく影響しています。しかし、経営の現場ではそれ以上に、「この会社で働く意味が見えるか」「ここで自分は大切にされるか」「この職場には信頼できる関係があるか」といったことが、働く場として選ばれるかどうかを左右しています。

また、「せっかく採用しても定着しない」という悩みも、多くの中小企業で共通しています。待遇が悪いから辞めるとは限りません。給与や休日など労働条件が整っていても、仕事の意味が見出せない・自分の声が届かない・相談できる相手がいない・職場で孤立している、といった状態が続けば、人はエネルギーを失っていきます。

逆にいえば、人は単に条件だけで働いているのではなく、「つながり」の中で働いているのです。

ここで大事なのは、「人的資本経営」を、単に一人ひとりの能力開発の話として捉えないことです。もちろん、研修やリスキリングは重要です。スキルを高めることも必要です。けれども、現場で実際に価値が生まれるのは、個人がバラバラに頑張っているときではなく、人と人がつながり、人と組織が結びつき、組織が社会や地域とも関わりながら動いているときです。

つまり、中小企業における人的資本経営の本質は、「人を資本として見ること」そのものよりもむしろ、「つながりの中で一人ひとりの力が発揮され活かされ合う」という前提に立ち返ることにあります。

中小企業だからこそ、「つながりの質」が経営に響く

中小企業では、一人の存在感が大きくなります。それは、裏を返せば、一人が孤立したときの影響も大きいということです。

職場の中で安心して話せない。困りごとを抱え込む。立場の違いを超えて相談できない。管理職が現場と分断される。部署同士がすれ違う。そうした“つながりのほころび”は、人数が少ない組織ほど、じわじわと経営全体に影響していきます。また、育児や介護で休む、自身の病気の療養で休む、など、社員の背景にあるライフ(人生・暮らし)における事情が、まわりにも影響する、という点も言えます。

しかしこれは、中小企業は「つながりの質」を高めることで、大きな力を生み出すこともできる、ということでもあります。経営者や社員同士の距離感の近さ、対話の場づくりなど何か施策を起こした時の変化の起きやすさ、顧客や地域との関わりの見えやすさ等は、中小企業の強みでもあります。

だからこそ、いま必要なのは、「人をどう管理するか」という発想だけではありません。むしろ、「どんなつながりの中で人が働いているか」「そのつながりは互いの力を引き出すものになっているか」を問い直すことです。

ここでいう「つながり」は、”仲の良さ”ではありません。

もちろん、お互いに仲が良く職場の雰囲気が和やかであることは大事ですが、むしろ、違いを持ったまま関われること、安心して声を出せること、互いの仕事が何につながっているのかが見えること、そして「この仕事は誰かの役に立っている」「この会社の営みは社会とつながっている」と感じられることこそが重要で、そうした信頼感ある関係性の中でこそ、人は力を発揮し、学び、育ち、挑戦できるようになります。

その意味で、人的資本経営とは、単なる“人への投資”ではありません。「経営者のまなざしの転換」です。

人を、足りない役割を埋めるための駒として見るのか。それとも、一人ひとりが関係性の中で力を発揮し、組織とともに育っていく存在として見るのか。この違いは、採用の言葉に表れます。育成の姿勢に表れます。評価や面談のあり方に表れます。会議の空気にも、日々の声かけにも表れます。

そして、このまなざしの転換は、「投資」という言葉の意味も変えていきます。お金をかけることだけが投資なのではありません。

人の声に耳を傾けることや、対話に時間をかけること。失敗を責めるだけでなく、その背景にある学びや可能性を見ること。目先の効率だけでなく、長い目で信頼関係を育てること。

そうした営みもまた、れっきとした投資であると理解し、そうした投資の質がそのまま組織の未来を左右すると言ってよいでしょう。

会社の中だけでなく、暮らし・地域・社会まで視野を広げる

さらにいえば、これからの経営では、会社の中だけを見ていても十分ではありません。

人は、仕事だけで生きているわけではないからです。家庭があり、地域との関わりがあり、暮らしがあり、心身の状態があります。また、企業活動は、地域社会や自然環境とも無関係ではありません。働く人のエネルギーがどこで育まれ、何によって消耗し、どこへ循環していくのか。その視野を持つことも、今後の人的資本経営には欠かせない視点になっていきます。

そう考えると、「人的資本経営」という言葉は、少し誤解を生みやすい言葉かもしれません。“人材”という言葉からは、個人の能力や生産性ばかりが強調されがちだからです。けれども、中小企業の現場で本当に問われているのは、個人の力をどう引き出すか以前に、その力が生きる「つながり」をどう育てるか、ではないでしょうか。

採用や定着、人の育成、そして組織のしなやかな変化。その土台には、つながりの質があります。今、求められているのは、「人をコストと見る経営」から「つながりを育てる経営」へのシフトです。

人件費をどう抑えるかだけでなく、人と人の関係をどう耕すか。

個人をどう管理するかだけでなく、人と組織の間にどんな信頼を育てるか。

自社の利益だけでなく、その営みが地域や社会とどう結びついているか。

そうした問いを持つことが、これからの中小企業経営にとって、ますます重要になっていくはずです。

次回は、中小企業における人的資本経営の本質は、実は「ES=人間性尊重経営」にある、というテーマを掘り下げます。人を一人の人間として尊重すること、そしてその尊重が、組織の力や持続的な価値創造につながっていくこと。その考えかたを整理していきたいと思います。

この記事の執筆者
金野 美香
金野 美香(きんの みか)

有限会社人事・労務 ヘッドESコンサルタント。
厚生労働省認定CDA(キャリアデベロップメント・アドバイザー)。
一般社団法人 日本ES開発協会 代表理事。
福島大学行政社会学部卒業後、有限会社人事・労務にて、日本初のES(人間性尊重経営)コンサルタントとして、企業をはじめ、大学、商工団体で講師を務めるなど幅広く活動する。“会社と社員の懸け橋”という信念のもと、介護事業所や福祉施設、製造業、サービス業などさまざまな中小企業でのクレドづくり・ES組織開発に取り組む。また、「日本の未来の“はたらくカタチ”をつくる」をテーマに、社員一人ひとりが地域社会との接点を持ち共感資本を高めるための活動を推進。自律心高い越境人材の育成や地域活動プロジェクトの運営などに力を入れ、ESを軸にコミュニティ経営の視点を中小企業で実践し、高い評価を得る。
宮城県仙台市生まれ。「東北の土地の記憶を知ること」「働く犬の研究」がライフワーク。

【主な講演実績・著書等】
・社会によろこばれる会社のためのESを軸とした組織づくり (熊谷法人会、上尾法人会)
・キャリアデザイン入門 (日本大学法学部)
・シゴト選びのモノサシを変える!新しい一歩を踏み出すキャリアデザイン講座(東北芸術工科大学)
・『人財経営実践塾』愛社精神溢れる-体感経営~ES(従業員満足度)が会社を伸ばす~ (ふくいジョブカフェ)
・対話の習慣を軸とした自律型人材育成法/ESを軸につながりを大切にする経営/新任管理職の為のリーダーシップ強化セミナー(ヒューマンリソシア「定額制公開講座ビジネスコース」)
・イノベーションを巻き起こすES向上型人事制度 (ピーシーエー株式会社)
・千葉県指定工場協議会 第三ブロック向けセミナー~今日からすぐに始められる会社が元気になる7つの施策 (あいおいニッセイ同和損害保険株式会社)
・後継者向けESマネジメント研修 (あいおいニッセイ同和損害保険株式会社)
・人と環境と社会にやさしい社内体制の作り方セミナー~グレートスモールカンパニーが社会を変える!~ (日本ES開発協会)
・若手社員の採用と定着を上手に行う秘訣 (常陽産業研究所)
・ES型人事制度構築のポイント (淡路青年会議所)
・「共感資本時代のリーダーはここが違う」(株式会社USEN)・・・他
・『ニュートップリーダー』「はたらく個も、組織も輝く経営」(日本実業出版社)
・2013年7月号:「独自に定めた「旅籠三輪書」を軸に地域のつながりを重視した変革に挑む-HATAGO井仙」
・2013年8月号:「本業を通した社会貢献」を掲げ、地域のつながりの基点となる-株式会社大川印刷」
・「人材アセスメントの時代」連載 (フジサンケイビジネスアイ)
・『ESクレドを使った組織改革』(税務経理協会)
・「従業員のモチベーションアップに役立つ社内コミュニケーション」(日本経団連事業サービス)
・『ESコーチング&ESマネジメント 感動倍増組織のつくり方』(九天社)
・『儲けを生み出す人事制度7つの仕組み』(ナナブックス)
・『社員がよろこぶ会社のルール・規定集101』(かんき出版)
・『今から間に合う! 小さな会社の働き方改革対応版 就業規則が自分でできる本』(ソシム)1
・「人事労務のいろは」連載(東商新聞)
・『労務事情』「人事労務相談室」連載(株式会社産労総合研究所)
・『月刊総務』(株式会社ナナ・コーポレート・コミュニケーション)
・『ニュートップリーダー』「ES経営が会社を伸ばす」(日本実業出版社)
2010年2月号:「社員がここにいたいと思う会社にする-株式会社アドバネクス」
2009年12月号:「患者の立場に立ってよりよい病院づくりをしたい-医療法人井上整形外科」
2009年11月号:「印税を通して地域や社会に貢献したい-株式会社大川印刷」
・就活支援ジャーナル
2014年10月15日「秋の内定をこうして勝ち取る!!」「企業人の視点 地域密着を果たし、社会を良くする企業に出合おう!」